勝者の代償 |
著者のライシュはクリントン政権時の労働長官。労働長官でありながら労働長官の職が激務であるという理由で辞任したナイスガイ。きっといい奴に違いない。
この本の中でライシュはインターネットの登場による(労働)環境の劇的な変化(ニューエコノミー)とそれに伴う社会環境の変遷についてこと細かく指摘している。日本でもIT革命なんて言葉がもてはやされ、それは魔法か何かと同義に捉えられ、インターネットがもたらす来たるべき輝かしい未来についての言及はあちこちでされてきた。それらはインターネットの利便性にスポットを当てた的確な指摘ではあるのだが、それだけでは不十分である。消費者としての私たちはインターネットの利便性をあまねく享受する一方で、労働者や生産者としての私たちはその代償を支払わされることとなったからだ。ライシュの指摘とは、その代償は私たちの想像よりも大きなものなのではないかというものである。
インターネットの登場とその利便性ゆえに労働者や生産者としての私たちはより過酷な競争を強いられることとなった。たとえば人々は何か欲しい商品があるのならばネットを使い最も安い価格で提供する商店を簡単に見つけることができる。配送だってクリック一つでOKだ。郊外型の大型店舗の登場によって、地域の商店街が壊滅的打撃を受けたときの構図が、より大きな枠組みで今もう一度起きている。これまでの商店は隣町の商店との競争に明け暮れていればこと済んだのだが、ITによって世界中の商店との競争を強いられることとなってしまったのだ。
ニューエコノミーの到来である。これは大ビジネスチャンスであり、現にチャンスを掴んで世界的に成功した企業もたくさん生まれた。しかし、ネット上のサービスの多くは模倣が比較的簡単にできてしまううえに、成功したビジネスモデルをまんま踏襲する手法が依然有効であるために、一度成功した企業といえども安穏としている暇がない。勝ち続けるための競争が強いられ、人々は生活に余裕を失い、地域コミュニティとの関わりも希薄となっていく。そして数少ない勝者の影に存在する大多数の敗者の存在や与えられたマニュアル通りの単純作業をこなすだけの低賃金労働者の増大など、ニューエコノミーの台頭によって労働環境は劇的に変化していく。
とまぁ、ここまでで全12章の中の最初の2章くらいまでを乱暴にまとめたんですが、この後に続く「ニューエコノミー祭り」と、その「後の祭り」ぶりがめちゃくちゃおもろいです。資本主義の持つ競争と効率化への力強い意志が人々や多くの人々で構成される社会をどう変えてしまうのか。それは発展や進化と呼べるようなものなのか。少なくとも手放しで喜べるような話ではないと思うのだが、日本ではこのあたりへの警鐘は不思議とあまり聞こえてこない。臆病な俺なんかはかなりびびっちゃって、「とりあえずがんばろう」なんて思っちゃったりしちゃったんですが、どんなもんなんかな。余裕ぶっこけるような身分に成り上がって「それでも俺の優位は動かない」なんて言ってのけたいもんだけど、「とりあえずがんばろう」程度のことしかひねり出せない今の現状では厳しいでしょうなぁ。まぁ、とりあえずがんばるか。
この辺気づいてる人は多いと思うんですが、あまり聞こえてこないのはやっぱり日本人の気質によるところがでかいんですかね。自分がそれほどがんばってもいないのにサプライサイドをあーだこーだ言うのは自分勝手すぎで申し訳ないみたいな。
その気質が仇となって、資本主義の暴走といいますか資本原理主義によっていづれどでかいコストを支払うはめになった時に、それまで我慢してきた民衆が暴発してすんごいことになる可能性もあるかと思うとwk.. (ry